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佐藤彦五郎新選組資料館、ビートルズ、旅行、絵画、新選組、佐藤彦五郎と土方歳三の姉のぶ直系子孫・福子の旦那、などについての日記。この難解な日記は、たぶん最低3回読まないと理解できないかと思われます。   褒めると伸びるタイプです。

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新選組展の図録から「三南」を見つける!
新選組展2022 福島会場でいただいた図録に、山南敬助について、三南と記してあるのを館長が見つけました。

福島県立博物館蔵・明治14年11月15日の記載。「新選組浪士始末」。
図録P166、222番資料写真 1行目「其頃之副長 三南三郎 仙台人 敬介と云う 柔術に達者之由」とあり!

日野では古くから、山南敬助のことを「やまなみ」とは言わず「さんなん」と呼んでいます。
佐藤道場の門人・古谷祐之助さんが書き残した「剣術帳」にも、万延元年の稽古記録が記されており、試衛場(近年、当時の文献には試衛場とあり、試衛館とは誤りであるとの記述があります)から出稽古で近藤周助、近藤勇、山南敬助、沖田総司が来た際にも、稽古相手の名前がずらり書かれておりました。
その中に、赤文字で小さく「江戸」、墨で「三南啓助」とあり、稽古相手に名前を聞いたところ「さんなんけいすけです」と答えたので、そのように書き残したのでしょう。これによって、「山南(さんなん)」が正しいことが分かります。「やまなみ」という呼び名は小説などから生まれたものだろうと思われます。
歴史研究家の山村竜也さんが20年近く前に、仙台などで調査した結果、「やまなみ」という言い方は全くなく、「さんなん」が正解であるとの見解を示しています。2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」で時代考証を担当された際、「さんなん」が正しいことは分かっていたが、それを三谷幸喜さんにいうと笑いに使いそうなので、差し控えたそうです。
それ以外に新選組関連の書籍などでは「山南敬助」「山南敬介」と記されていますが、山南本人の署名の資料が残っていて、そこには「山南敬輔」とあります。
古谷祐之助さんの「剣術帳」には、他にも、近藤周助を「江戸」「近藤宗助」と書いています。近藤勇はそのままでした。
なお「やまなみ」が正しくて「さんなん」がニックネームだと勘違いされている方もいるようです。

「剣術帳」には他にも、土方歳三や井上源三郎の名前もあります。
小説、映画やドラマなどでは、「試衛館」の食客として、近藤勇、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助らと共に生活していたとされていますが、土方歳三と井上源三郎は日野に居ました。
近藤勇でさえ、近くに自宅があり、試衛場(試衛館)に通っていたとあります。
浪士隊募集の際、近藤勇一門の門下として土方歳三や井上源三郎も参加しているので、試衛場の食客として描かれてしまうのではないでしょうか。
歴史研究家のあさくらゆうさんによると、当時、農民の立場で江戸の道場に入門することが出来なかったとのことで、試衛館の食客は不可能だということです。

「剣術帳」に土方歳三の名前は日野宿に居たので沢山出てくるのですが、「土方年蔵」「土方歳蔵」と記載されています。

映画やドラマ、特に大河ドラマ「新選組!」は人気があり、リアルタイムで見られなかった若い人までもDVDなどで見たという話を聞きます。
大河ドラマを見た人の多くは、そこに描かれている人物、出来事が真実だと思ってしまうようです。例えば、山南切腹後、近藤と土方が肩を寄せ合って泣いたシーンが良くて、本当はそうだったんだ...とか、井上源三郎が試衛館でお茶出ししてたり(試衛館にも居ないし、お茶出しなんてするなんて、ありえない!)、彦五郎が情けないキャラクターで描かれていたり...(近藤勇への手紙で近藤を注意しているのに)それに彦五郎愛用の大きな刀(拵えも含め3kgもある刀)を使いこなしていたというのをみれば、どんな人物だったかが分かると思います。

真実は手紙や記録など、文書に残されたものから得られるもので、映画やドラマなどは、大まかな歴史の流れから脚本を書いた作り話であり、古文書などがない伝承などもあやしいものが多いと考えられるそうです。

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7月1日(日)開館日、
2018年、ひの新選組まつりのミスター土方さんが来館されました。
受付で、あれ?土方歳三??と思い、訊いたら、やはり土方歳三ご本人でした。

ミスター土方の時は、隊服のせいもあってか雄々しくて背も高い印象でしたが、ご本人は女性らしい綺麗な方で、背も思ったほど高くなくて、161センチだそう、、、
ブーツは26センチもあったので、中敷を入れたりして少し高くなったそうですが、歴代のミスター土方では一番背が低かったとのことです。
コンテストでは最後の4人に絞られてからも、まさかミスター土方に選ばれるなんて思ってなかったようで、決まった時はびっくりだったそうです。

まつり当日、パレードは例年は2周なのに、雨のため1周だけで中止になってしまったことが本当に残念だったと言ってましたが、資料館の前をパレードしてくれるので楽しみだっただけに、こちらも残念でした。



今日は、コンテストの隊士役の皆さんと沖田総司忌に参加してから、別行動で日野まで来られたそうです。
ありがとうございます!

昨年のひの新選組まつりでは、沖田総司役を射止めて、その後、隊士役の皆さんと当資料館にもご挨拶に来られましたが、その時もギャップがあったことを話すと、沖田総司役の場合、メイクさんが可愛いイメージで仕上げることになっているらしいです。
「沖田総司」と「ミスター土方」両方選ばれるなんて、すごいですね!



遠くて大変かと思いますが、機会があったら、隊士役の皆さんともまたご来館ください。

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福子倶楽部会員の羽生(はぶ)家ツアー、いよいよメインの屋敷見学です。

バスに乗り遅れた分際なのに、傘をさして歩くこともなく羽生家に先に着いてしまってゴメンなさい。
羽生家に着くと三階建の大きな蔵と大きな門が見えます。その大門の前にバス停から歩いてきた皆様も揃いました。(この門が本当にでかい!)



羽生謙五さんも出て来られたので、福子が先ずお墓参りをしたい旨を告げると、了解されお墓へ案内してくれました。

清源寺の横をすぎ、奥の奥に羽生家のお墓がたくさん並んでいました。
羽生さんが説明を始めると福子がお酒を手前にあった羽生家のお墓に供えましたが、そこが上羽生家とは限らないので、まだ早いんじゃない?というと案の定、他の羽生さんでした。

並んだお墓の正面中央が、羽生家初代伊賀守夫妻と二代目大膳夫妻(両家共通)の墓標で、右が上羽生家、左が中羽生家のお墓だそうです。夫婦一代ごとに歴代お墓を建てているようです。




彦五郎らを匿ったときの当主、14代羽生傳蔵さんのお墓のご説明。

お墓を後にして、油屋地蔵尊での絵馬?ご説明がありました。
天然記念物の「ヒメザゼンソウ」探しでは(これは本当に探すのが困難)諦めかけたとき、Kさんが見つけ次から次に見つかりました。さすがKさんです!


中羽生家も長屋門の中へ入って説明を受けました。

そんなこんなで、ついに上羽生家の中へご案内されます。
正面の大門は普段使用しておらず、通用門から入りました。


屋敷の東側にある通用門

蔵が6戸前もありますが、明治15年、大久野村一体が大火事になった時、残ったのが蔵だったことから「大事なものは蔵へ」という習わしになったそうです。

米蔵と味噌蔵を開けていただきご説明がありました。



奥へ奥へと裏庭の方へ行きましたが、とにかく敷地が広いのです。東京ドーム半個分はありそうです。


こいのぼりを立てるときの穴があるそうです


ガス灯の名残


三階建の蔵


主屋の西側には書院があります

大門のところでは、せっかくだから開けましょうということで、年一回開けるかどうかの門を開けていただきました。


大門の内側です


とにかく人間と比べても、やたら大きいことが分かります

小雨がぱらついていましたが、門から見る屋敷一帯を見ながら、雨の風景も色が際立っていいものですね...と羽生さんが言われました。
ああ、今日は雨で良かったんだぁ、、、という気持ちに即なりました。
しっとりとした雨の情景に感謝!です!!
ただ、また見学させてもらえるとすれば、晴れでお願いします。



主屋の正面玄関から座敷に入れていただきましたが、中を見せて頂けるとのことでしたが、上げて頂けるとは思ってなくて驚きと感激でした!
書がいくつかあって、これが何々の書です...と説明はあったものの、分かったのは、三条実美の書だけでした。
襖も豪華で説明を受けましたが、金屏風、金に漢詩書の襖、金に墨絵の襖、春夏秋冬が描かれた襖、どれもこれも素晴らしいものでした。

さてさて、今回、羽生家が所蔵している「近藤勇の書簡」を見せて貰えるのではないかという話もありましたが、、、
じゃーん!羽生さんが近藤勇の書簡を手に持たれているじゃないですか!
和紙の包みから取り出された近藤勇手簡は、当時のままの状態で保存されていました。

これを広げてくださいと羽生さんからのお言葉があり、皆さんが「それなら福子さんしかいない」ということで、広げることに。
この手紙のやり取りは、150年経った名主同士の子孫ですが、幕末にタイムスリップしたかのようでした。

手紙を広げたとたん、いろんな手が出てきて、シャッターを切り始めました。
近藤勇の手紙を、ガラス越しではなく直に、許可も得ずに撮るなんて、なんと贅沢なことでしょう?こんなこと有り得ないと心で叫び、僕もシャッターを切っていました(笑)


近藤勇の手紙と書き添え。下の書は当時、羽生家の方が書いて残したものと思われます。
「関東之魁傑近藤勇手簡」と書き添えてあります。

当家の伝承では、勝沼戦争で惨敗し、日野に戻ってすぐ新選組関係の文書類を手分けして持って逃げたとありますので、混乱した中、彦五郎が羽生家に置いていったものとされておりますが、多くの説が『羽生家に潜伏していた時期があったことから、近藤勇の書簡を預かっていた彦五郎が、置いていったものと推定される』とあります。
なぜ近藤勇の手紙を羽生さんに預けたと思われますか?の問いに羽生さんは、
羽生家も同じく、徳川に準ずる幕府側でしたので、「(羽生家が)口が固かったからと考えられます」ということでした。
明治15年、大久野村大火災の時も守られてきた近藤の手紙です。
新選組の文書は、幕府側の羽生家にとって、また佐藤家にとっても処分などできない、大切なものだったのですね。

この手紙の宛名は、「三浦休太郎様 近藤勇 机下」とあります。

三浦休太郎とは、坂本龍馬を暗殺した中のひとりとして考えられました。その仇をとるのでは?と三浦は命の危険を感じ、会津藩を通じて新選組に警護を依頼します。
これじゃあ、何のことやら分からないと思いますが、「いろは丸事件」「天満屋事件」をキーワードに探してみて下さい。

手紙の主旨は、伊東甲子太郎が新選組と分裂したあと、斎藤一を間者として伊東の御陵衛士に潜入させました。近藤勇、土方歳三の暗殺の情報を得ると御陵衛士を脱走し新選組に伝え、名前も山口二郎と変えました。二郎は三浦休太郎の警護として潜伏しましたが、近藤勇も伊東甲子太郎一派の暗殺を目論み、事情も知り、腕の立つ二郎を断りもなく引き取ったことへのお詫びの手紙です。


羽生謙五さんと近藤勇の手紙

羽生家訪問は、念願でもありましたが、羽生謙五さんのご好意で、夢のような時間を過ごさせていただくことが出来ました。このような機会を持たせて頂き感謝申し上げます。


※帰り道だったので駅を降りて、彦五郎一行が羽生家に案内される前に立ち寄った、二宮神社と井上才一の天然理心流の碑を希望者4名と見学して帰りました。

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6月10日(日)
羽生家ツアーを行いました。



10時に福生駅に集合。
小雨の中、バスで「塩沢秋川霊園」まで向かいました。
ここでは、「塩澤山寳光寺」と「鹿野大仏」を見学します。

バスを降りるとすぐに「塩澤山寳光寺」に着きます。
入口のリッパな総門から、たくさんのリッパな羅漢像の並ぶ坂を登り、リッパな階段を上がるとリッパな山門があります。
山門をくぐるとリッパな庭園とリッパな梵鐘があり、正面にはリッパな本堂があります。
このリッパなお寺を抜けると山の上には、リッパな大仏があります。
みんなバランバランとまとまらずに緩やかな坂道を登ってゆきます。











さて、早く着いた人はいいのですが、タラタラ登ってきた人はゆっくりできずに、雨の大仏もみんなで集合写真を撮ったらそこそこに、バス停まで一気に下ります。


(雨に濡れる鹿野大仏)


(途中にいたカエル。この時期は欠かせません!)


(寳光寺の横道を下っていきます)



バス停に戻ると、今度は「武蔵五日市駅」まで一気にバスで進みます。

武蔵五日市駅で降りると、駅前にあるレストランへ。
ここで予約していたレストランに入りましたが、人数分のテーブルがセットしてありました。
ここは、ランチがスムーズに済むように、事前に「薬膳カレーライス」と「ホワイトオムライス」の2種に絞り、いずれか希望をとって予約しておきました。
僕の予想ですと、
12:00に18人が席に着く→12:05にすぐ料理が運ばれてくる→12:06食べ始める→12:30食べ終わる→ヒマを持て余す→12:50バスに乗る→13:00バスが出るというシナリオでした。でも実際は違いました(-_-;)



僕は奥の端っこに座り、右隣がSさんで向かいが清水先生でした。
Sさんが「羽生家の敷地は広いんでしょう?」と訊いてきたので
「はい、だいたい東京ドーム3個分くらいです」と言うと
Sさんと向かいの清水先生が「ええー、そんなに広いの?」と驚きの声。
むむ、この冗談、キレが悪かったのか?反省いたしました、、、(~_~;)

さて、駅前のレストランなので、道路を渡った3番バス停で13時発のバスに乗ることになっていましたが、乗り遅れが2人でました。
先の僕の予想とは違い、18人分、サラダと小さなスープが既に用意されており、また違うスープが運ばれ、先にカレーが運ばれましたが、カレーも12人分だと時間がかかります。その後、オムライスが運ばれ、食事が終わった人からそれぞれに、好みの飲み物が運ばれましたが、コーヒーがなかなか来ず、僕にコーヒーが運ばれたのは12:45くらいでした。予定だと『ヒマを持て余す』がそろそろ終わる時間です。
50分くらいから、トイレに並び始め、会計が並び始め、バス停にも並び始め、もう13時前なので「皆さんバスに乗って、大久野中学校バス停で降りてください」と告げ、レストランを見たら、遅れ人待ちの福子と遅れの2人がいました。

その後、4人はタクシーで羽生家へ向かいました。
バスを降りて雨の中、羽生家に向かって歩いている人たちを、タクシーは追い抜いて行くのでした。スミマセンemoji

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2018年5月13日(日)ひの新選組まつり本番でした。

ひの新選組まつり2日目
さて、一夜明けた「まつり」の2日目ですが、
今日は、テントも昨日組み立てたままだったので、もう安心!(^ε^)♪

そんなこんなで、朝からクッキーに貼るシールを作っていたら、開館1時間も前の9時頃、サインを求める方々が並び、また書き始めました。
そんな頃、ライブが行われる第一小学校から、リハーサルなのか?音楽が聞こえてきて、いよいよ新選組まつり本番の雰囲気が盛り上がってきました。(^∇^)




長女(パティシエ)が焼きました!


朝一番で、中島登ご子孫・中島岳大さんご兄妹が来館されました。
中島様には、お父様もそうですが、いつも大変お気遣いいただいております。感謝申し上げます。

(左から、中島岳大さん、館長、岳大さんの妹さん)


その後、沖田総司・姉ご子孫が来館されました。

(沖田総司・姉ミツさんのご子孫ご家族と。右端は歳三・姉のぶの子孫、福子。姉の子孫同士ですね)

しかし、今日も昨日同様、朝から御朱印書きばかりで、午後のパレードもほとんど見られなかったのですが、館長はパレードの隊士たちに手を振ったりしていたようです。












(パレード画像は、福子倶楽部会員の方からお借りしました)

僕の予想より早く14時頃から雨も降ってきましたが、やっとのこと一小の特設ステージへと、雨中のさくらゆきライブを観にいきました。

うちの女性スタッフに小栗さくらさんに興味のある人がいて、午前と午後の両ステージとも観たい!ということで、午後のステージも既に観に行っていました。

結構な雨だったので、僕が傘をさして特設ステージに行ってみると、傘もささず、雨の中、熱心にライヴを観ているスタッフの姿がありました。

いやぁ、小栗さくらさんに興味があるとは聞いていましたが、ここまでのファンとは知りませんでした。

さくらゆきのお二人も、雨に濡れて熱唱しておりましたが、やはりガチファンとしては「さくらゆきさんと同じようにびしょ濡れになりたい!」という純粋な気持ちだったんでしょうねぇ。頭が下がります。

びちょびちょに濡れながらも応援する姿は美しく、心打たれるものがありました。
ファンの鑑とはこういうことを言うんでしょうなぁ・・・
まさに「雨も滴るいい女」でした・・・


(涙をさそう朗読の場面)


(振り付けも合わせます!)


(結構強めの雨にも拘わらず、笑顔で熱唱するさくらゆきの二人。感動に涙するファンも!)

資料館に戻ると、何かと忙しくて、お昼を食べたのも15時過ぎでした。
結局昨日同様、ほとんど御朱印書きで2日目が終わりました。ああ切ないな...(_ _。)

ただ、どんどん字が上手くなっていきました!\(^o^)/

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