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佐藤彦五郎新選組資料館、ビートルズ、旅行、絵画、新選組、佐藤彦五郎と土方歳三の姉のぶ直系子孫・福子の旦那、などについての日記。この難解な日記は、たぶん最低3回読まないと理解できないかと思われます。   褒めると伸びるタイプです。

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2022年1月16日(日)開館日、
2019年のミスター土方さんが来館されました。
もう何度か来られていますが、今回は、新年のご挨拶ということです。
ご丁寧にありがとうございます!

コロナの影響で、2020年、2021年と2年連続で「ひの新選組まつり」が中止になってしまっていたので、かれこれ3年間の長期「ミスター土方」ということです。

2018年が双子妹の方がミスター土方に選ばれて、翌年は双子姉の方で、姉妹で連続ミスター土方に選ばれているんですから、、、これってすごい確率なのかな?



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明治2年5月11日は、新暦1869年6月20日。土方歳三の命日です。



新暦に替わったのが、明治6年元日からとなりますが、
旧暦の明治2年5月11日、1869年6月20日が土方歳三の命日にあたります。
歳三の最期の時、また市村鉄之助が脱出したのもそんな季節だったので、
函館に居ると、より肌で感じられることと思います。
初夏の函館は、とてもいい季節です。

歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出、船の中で出航を待つこととなります。出航したのが6月20日過ぎになります。
中島登の記録には、市村鉄之助、行方不明とあります。

数日かけての航行で、6月末に横浜に着いたと思われます。
到着後、間もなく質屋に立ち寄ったという記録があります。
当時、目的地に行くのも簡単ではない筈です。身を潜めながら佐藤家までやってくるとなれば、数日は要すると思います。

佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日との説があります。
この時期は梅雨の真っただ中。
鉄之助は、歳三の命を受けて持ち運んだ遺品・・・写真、遺髪、刀、書き付け・・・
「使の者の身の上 頼み上げ候 義豊」
いつもの署名、土方歳三ではありません・・・
そして戦況を伝える手紙は書いていませんでした。


賊軍となってから、筆まめだった歳三が、そこから手紙を一切出さなくなりました。
父母のように慕った彦五郎やノブに、いらぬ嫌疑がかかってはならないと、証拠に残る手紙を書けなかった。何をやらせても、そつなく出来た歳三は彦五郎、ノブへの配慮も忘れませんでした。
北へ向かう会津、仙台、箱館。もっと手紙を出したかったことでしょう。そんな歳三の気持を考えると可哀想だったなと思います。
歳三の一番大切な身内への心遣いは、市村鉄之助に伝言としてもたらされました。

「われ、日野佐藤兄に対し、何ひとつ、恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」


旧暦と新暦、その年によって、多少の誤差が生じます。
例えば、歳三が生れたとされる天保6年5月5日は、1835年5月31日となります。

歳三の命日は、東京(当時、多摩辺りは神奈川県)では梅雨の時期だったなんて考えてみて、当時へ思いを馳せるとより実感できるかもしれません。

旧暦と新暦を調べて、あの時は現在ではこんな季節だったのだな~なんて考えてみると、おもしろいものです。

当家は、歳三のすぐ上の姉ノブの直系の子孫にあたりますが
弟思いだったノブでしたので、市村鉄之助から歳三の戦死を知らされた時のことを思うと、なんと忍びないことか。
歳三のご冥福をお祈りいたします。

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土方歳三が、橋本道助(政直)となみ(彦五郎長女)の長男出生に贈ったお祝いの七言絶句があります。

才名徳望重宇裏 梅桜竹林百歳間
丈夫気識応如此 独鶴高翔萬仭山
賀橋本君生一子     義豊書

「才名徳望を広く積み、梅桜竹のようにめでたいことが長く続くように、この男子の気概は、一羽の鶴が万仭山の頂を悠々と飛翔してゆくような群を抜いた立派な人物になってほしい」
という意味です。


(小島資料館所蔵)

なぜ、歳三が橋本道助の子にこの句を贈ったか?ですが
橋本道助(政直)に嫁いだ「なみ」は、彦五郎と歳三の姉、ノブの初めての子ですが、佐藤家で暮らしていた歳三にとっても、特別な存在だったと思います。
(佐藤家、彦五郎とノブのもとで育ったからこそ、長州征討前、死を覚悟して送ってきた品や市村鉄之助に託した形見、他にもたくさんの品、手紙は彦五郎に送ってきました)

なみは歳三が12〜3歳の頃の子なので、姪とはいえ妹のような存在でもあり可愛がったということは容易に想像がつきます。
(次の子、佐藤源之助のことは、弟のように可愛がり気に掛けていたようで、幼少期から常に関わりを持ち、乗馬を教えたり、銃術の師範として京都に連れていきたい...また最後に徳川家の名刀「越前康継」を与えています)

可愛がっていた姪「なみ」の最初の子、男子誕生となれば、歳三にとっても大変喜ばしい出来事です。
慶応元年8月26日、多摩郡小野路村・橋本政直の長男の出生を祝い、「橋本君一子生を賀す」として書いた漢詩。

現在、この七言絶句は「小島資料館」に所蔵されています。

小島政孝著「土方歳三〜幕末群像伝」には、歳三の七言絶句の項に以下のことも記されています。

『また、「雑書」慶応2年4月1日の条に、
「日野宿佐藤彦五郎・源之助・定二郎外壱人兼助等来、道助方仁平、京都土方歳造より相届候小袖壱ツ貰也」
とあり、新選組副長として多忙な日々を送っていた歳三が、赤子に小袖を送るような心遣いに驚かさせる。』

土方歳三に関する逸話は多々ありますが、当時の文献とすり合わせのできるものは、信ぴょう性があるのかも知れませんね。

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3年前、「福子新選組倶楽部」の会員で、有山家の上段の間と本田家の主屋の見学会が行いました。

有山家見学の後、午後からは、舞台を国立市谷保に移して、本田家主屋・薬医門の見学です。
その当時、本田家も非公開でした。

会員の皆さんより先に着いたので、入り口(薬医門)に行ったところ、ご当主の娘さんが出迎えてくださいました。

間もなく本田家16代ご当主・本田咊夫(荻庵)さんも見えられ、しばし談笑となりました。
佐藤家の古写真に「谷保天満宮一千年祭」とのタイトルが6〜7枚ありましたが、その中に明治時代の甲州街道に2台の人力車と塀が写ったものが2枚ありました。
本田家ではないかと複写して持参し、おふたりにお見せしたところ、「植垣が刈り込んであった....薬医門がこうだった....」等、話され、本田家前の写真であることが判明しました。

この2枚の古写真は見た事がなかったとのこと、おふたりとも大変喜ばれました。


(江戸の御客様さよなら 谷保天神一千年祭)と書いてあります。

この古写真には薬医門の一部も写っていますが、まだ甲州街道に面していたものでした。
道路幅員拡張によって、現在の位置に移されました。
かなりセットバックしたのでしょうか?当時は、門から主屋までもう少し距離があったのでしょう。



馬が出入りするため、高い造りになっています。

30分ほどして会員の皆さんも到着し、おふたりのご説明を伺ながら見学となりました。
当時、平日は国立市の調査が入っていると言われておりました。

東側の古い方の玄関に福子と向かい、写真を撮ると、多くのオーブが写り込んでいました。
後日、会員の皆さんに、この玄関の写真でオーブが写りこんでいるか聞いたところ、誰も写っていないことがわかりました。
ある会員の方は、玄関に福子が来たので「よく来たな」と出迎えたのでは?と言われました(笑)
遺伝子が通じるのか?ヽ(*'0'*)ツ


(オーブがいっぱい)



(米庵流の篆刻が並んでいます)


(谷庵とあります。佐藤家にも谷庵書の「誠」の彫り物があります)


(室内)


(本田医院の看板)

主屋の建築年代を調べたところ、本田家には「金屋諸職人作料其外払方牒」(嘉永2年・1849年)という家普請の記録があり、このとき母屋南側の書院、および母屋西側の元々馬屋だったところを書斎等に増築したものとあります。

嘉永2年に増築されているので、歳三や近藤勇さんが訪れていたころは、現在の建築であったようです。
咊夫さんにお伺いしましたところ、近藤勇は周辺の剣術のために訪れていますが、書や漢詩を習っていたそうです。
それ以前、彦五郎も習いに来ていたとの事です。


東側からの面、書院、中の間、奥の間と続く

中の間・北側の柱に付けられていた祈祷札を調査したところ、享保16年(1731)銘が確認されたそうです。
祈祷札を剥がしたあとは、白く残っています。


300年近くの歴史のある建築ということになります。

とてつもなく長い歴史を背負った建物で、著名な文人たちも此処の歴史に携わっています。
狂歌師の蜀山人
こと太田直次郎や府中六所宮の祠官の猿渡容盛(ひろもり)、儒者で漢詩人の小野故山、他多くの文化人との交流がありました。

佐藤彦五郎宅もそうですが、当時の文人たち、また歳三・勇らの語らいが聞こえてきそうな邸内は、そんな歴史が刻まれているのです。


歳三や勇が泊まった部屋がここ。奥の間になるそうです。


西側には富士塚のような小さな築山があり、祠がありました。


東側横、敷地内から見る薬医門。

本田家見学後、薬医門前で集合写真を撮り、次の見学地、すぐ近くにある谷保天満宮に向かいました。

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先般、国立市谷保にある本田家の茅葺き屋根の主屋が、国立市に寄贈されました。

平成23年、本田家主屋と薬医門が国登録有形文化財に指定され、以前から市の調査が入っていた建物です。

薬医門は元々、板塀の中央、甲州街道に面して建立されたものですが、道路拡張の際、向かって右手角に斜めに移されました。


馬が患者を乗せて通れるよう、高い造りになっているとのことです。


本田家主屋の絵

本田家は、代々書家であり、医業に従事していた家系です。
彦五郎は本田家で、書や漢詩などの習い事をしました。
歳三が書を習いに行っていたのは周知のとおりですが、彦五郎の息子たち4人(俊宣、力之助、蓮一郎、彦吉)も習っていたようで、明治5年には、この男子4人のみ、横浜から英語教師を呼んで、英語の勉強もさせていました。

本田家と佐藤家は姻戚関係にあり、曽祖父の俊宣の妻、祖父の仁の妻は、二代続けて本田家から嫁いでいます。

本田家、土方家、佐藤家の三家、それに加えて小野路の橋本家、小島家が姻戚関係にありますが、特に三家は関わりが深く、婚姻関係が密接です。

6代前、土方家から長女のコウさんは橋本家へ、次女のチカさんが本田家へ嫁ぎ、三女のマサが佐藤彦右衛門に嫁ぎました。
マサは彦五郎の母にあたります。
次の代(5代前)では、歳三の姉ノブが彦五郎に嫁ぎます。
彦五郎とノブからは、福子は玄孫にあたります。
その長男・俊宣(福子の曽祖父)は、本田覚庵の娘・トマ(退庵の妹)を嫁に迎えました。(福子はひ孫)
さらに本田退庵(覚庵の長男)の長女のマセさんは土方家に、次女の和代は、佐藤仁に嫁ぎました。
福子の祖父が仁、祖母は本田家の娘和代ということです。


左から佐藤和代(退庵娘・仁妻)、佐藤トマ(覚庵娘・俊宣妻)、佐藤昱(仁息子・福子父)、土方タネ(策助妻)、佐藤桂、佐藤仁、本田好、佐藤俊宣、本田百合子、本田定年(退庵)、粕谷紅葉、佐藤桃代(大正4年頃、晩年の退庵と俊宣)

三年もの間、諸国漫遊で戻らぬ退庵を連れ戻すため、俊宣は明治22年、熊本に退庵を訪ね、その後の半年間はふたりの西遊紀行となりました。
帰り道の京都では、近藤勇の首級の行方、土方歳三の忘れ形見(愛妾)を探したりしますが、元新選組隊士の山野八十八に面談、さらに西本願寺の御太鼓楼に勤める島田魁と面会し、探索方を依頼したとあります。
歳三の愛妾の君鶴は四年前に亡くなっていたとのことです。


本田定年(退庵)と佐藤俊宣(玉陵)の西遊紀行
玉陵は俊宣の俳号

僕が初めて本田家を訪れたのは、結婚のご挨拶でした。
まだお祖父様(本田谷庵)とお祖母様がご健在のころで、この古い主屋に、おふたりで実際に生活されておりましたので、ここにお邪魔してお話をしました。
この時、次の世代の咊夫(荻庵)さんや奥様もご一緒にお話しいたしましたが、生活は別で裏の新しい家で暮らしておりました。

この古い屋敷に感嘆しましたし、なんとも言えぬ歴史を経た重みを感じましたが、その中で語りあう場にいると、こういう親戚があるのだから「福子」という古風な名前もつけられるのだなと妙に納得したことを覚えています。

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