忍者ブログ

佐藤彦五郎新選組資料館、ビートルズ、旅行、絵画、新選組、佐藤彦五郎と土方歳三の姉のぶ直系子孫・福子の旦那、などについての日記。この難解な日記は、たぶん最低3回読まないと理解できないかと思われます。   褒めると伸びるタイプです。

先般、国立市谷保にある本田家の茅葺き屋根の主屋が、国立市に寄贈されました。

平成23年、本田家主屋と薬医門が国登録有形文化財に指定され、以前から市の調査が入っていた建物です。

薬医門は元々、板塀の中央、甲州街道に面して建立されたものですが、道路拡張の際、向かって右手角に斜めに移されました。


馬が患者を乗せて通れるよう、高い造りになっているとのことです。


本田家主屋の絵

本田家は、代々書家であり、医業に従事していた家系です。
彦五郎は本田家で、書や漢詩などの習い事をしました。
歳三が書を習いに行っていたのは周知のとおりですが、彦五郎の息子たち4人(俊宣、力之助、蓮一郎、彦吉)も習っていたようで、明治5年には、この男子4人のみ、横浜から英語教師を呼んで、英語の勉強もさせていました。

本田家と佐藤家は姻戚関係にあり、曽祖父の俊宣の妻、祖父の仁の妻は、二代続けて本田家から嫁いでいます。

本田家、土方家、佐藤家の三家、それに加えて小野路の橋本家、小島家が姻戚関係にありますが、特に三家は関わりが深く、婚姻関係が密接です。

6代前、土方家から長女のコウさんは橋本家へ、次女のチカさんが本田家へ嫁ぎ、三女のマサが佐藤彦右衛門に嫁ぎました。
マサは彦五郎の母にあたります。
次の代(5代前)では、歳三の姉ノブが彦五郎に嫁ぎます。
彦五郎とノブからは、福子は玄孫にあたります。
その長男・俊宣(福子の曽祖父)は、本田覚庵の娘・トマ(退庵の妹)を嫁に迎えました。(福子はひ孫)
さらに本田退庵(覚庵の長男)の長女のマセさんは土方家に、次女の和代は、佐藤仁に嫁ぎました。
福子の祖父が仁、祖母は本田家の娘和代ということです。


左から佐藤和代(退庵娘・仁妻)、佐藤トマ(覚庵娘・俊宣妻)、佐藤昱(仁息子・福子父)、土方タネ(策助妻)、佐藤桂、佐藤仁、本田好、佐藤俊宣、本田百合子、本田定年(退庵)、粕谷紅葉、佐藤桃代(大正4年頃、晩年の退庵と俊宣)

三年もの間、諸国漫遊で戻らぬ退庵を連れ戻すため、俊宣は明治22年、熊本に退庵を訪ね、その後の半年間はふたりの西遊紀行となりました。
帰り道の京都では、近藤勇の首級の行方、土方歳三の忘れ形見(愛妾)を探したりしますが、元新選組隊士の山野八十八に面談、さらに西本願寺の御太鼓楼に勤める島田魁と面会し、探索方を依頼したとあります。
歳三の愛妾の君鶴は四年前に亡くなっていたとのことです。


本田定年(退庵)と佐藤俊宣(玉陵)の西遊紀行
玉陵は俊宣の俳号

僕が初めて本田家を訪れたのは、結婚のご挨拶でした。
まだお祖父様(本田谷庵)とお祖母様がご健在のころで、この古い主屋に、おふたりで実際に生活されておりましたので、ここにお邪魔してお話をしました。
この時、次の世代の咊夫(荻庵)さんや奥様もご一緒にお話しいたしましたが、生活は別で裏の新しい家で暮らしておりました。

この古い屋敷に感嘆しましたし、なんとも言えぬ歴史を経た重みを感じましたが、その中で語りあう場にいると、こういう親戚があるのだから「福子」という古風な名前もつけられるのだなと妙に納得したことを覚えています。

拍手[0回]

PR

8月26日付、読売新聞の多摩版に小島政孝著「幕末群像伝・土方歳三」の出版が、紹介されました。

小島さんからその著書が8月中旬に送られてきておりました。
「小島日記」「橋本家日記」「両雄史傳」「両雄逸事」等、記録の中からの歳三のエピソードが綴られています。

市村鉄之助の佐藤家来訪のこと、歳三辞世の句の疑問も解決される内容となっています。
「多摩の豪農・小島家を巡る人々〜」のシリーズでは、土方歳三、近藤勇、佐藤彦五郎ら33人を取り上げる予定で来年には出版するとの事でした。



当資料館でも販売しています。
四六版・表紙から裏表紙まで含め64ページ・800円(税込)
※全国発送も可(送料等含め計1,000円をゆうちょ銀行またはみずほ銀行にお振込みください)

◾️購入希望の場合、下記までお問合せください。
メール:hiko56-shinsen★jcom.zaq.ne.jp(★を@に)
TEL: 042-581-0370 佐藤彦五郎新選組資料館

拍手[0回]

昨年7月3日(日)に
TBSテレビ「7時にあいましょう」の収録が当家で行われ、ブログには
書いていましたが、その非公開の記事を発見!しました
「人間は忘れる生き物である」とは、よく言ったものですな〜ハハハ....
当時のままの原稿ですが、不適切なワードなどがございましたら、どう
ぞご指摘ください。

この番組の不定期なコーナーに「偉人の末裔にあいましょう」というの
があるんですが、前回は岩倉具視の末裔と勝海舟の末裔でした。
勝海舟の末裔には高山みな子さんが出演されていて、
「あ、高山さんが出てるね」なんて話していたんです。
それから何日か経ったころ、、6月中旬ぐらいに土方歳三の末裔として
(当家は歳三の姉の子孫)、うちに出演オファーがきました。

今回は福子的には、長女に代わりを務めてもらいたかったようですが、
ディレクターの方は「福子であいましょう!」でって感じで、結局福子
が出ることになりました。

当初、資料館での収録予定だったんですが、日野宿本陣をご案内したと
ころ、ここでも撮りたいと話しになって、結局、本陣と自宅でロケする
ことになりました。

ロケに来られるのは、DAIGOさんと高畑裕太さんです。

10日ほど前から数回打ち合わせがあったのですが、収録日がまだはっ
きりしてなくて、7月中旬という話もあったのです。
それが急に3日の17時からと決まりました。
DAIGOさんのスケジュールがそこしか空いてないそうです。売れっ子だ
からなぁ.....
高畑さんだって、ドラマ、バラエティ番組に活躍されているお方です。

収録の3日は、ちょうど資料館の開館日で16時に閉館なのです!忙し
くなるな〜。
日野宿本陣で撮影してからということで、本陣は見学者が残っている時
間なので、大丈夫でしょうか???

さて、当日資料館閉館後、旗やのぼりを立て直して、自宅で打ち合わせ
が始まりました。

そんな忙しい中、福子にお客さんが来て応対したり、刀や近藤勇の短銃、
沖田総司の書簡を和室にセッティングしたりと、着物を直す時間もない
ままに玄関で待機となりました。
僕はといえば、スタッフの方とカメラに映らない位置で待機です。

間も無くDAIGOさんと高畑裕太さんが、撮影しながら玄関にやってきて
インターホンを押すと、福子が出迎えます。1時間前にいただいた台本
はあるんですが、ここから全てアドリブです。

家の中にお招きして、いろいろやり取りが始まり、その流れのまま収録
が続きます。
時折カンペがでて、それをDAIGOさんがそれを拾って、福子に質問する
という形です。

撮影はリビングだけで、和室に土方歳三の刀「越前康継」など3点の史
料を置いていただき、そこから出してくださいということだったのです。
しかし!、、、DAIGOさんと高畑裕太さんが、襖を開けて床の間に置い
た「越前康継」を見てemoji、、、そのまま和室で撮影続行となりました。



二人が刀を持つということになり、DAIGOさんは地上波では取らない
という革手袋を外し、史料用の白手袋に!
実際には、刀身は保護のため白鞘に入れてあって、代わりに竹光が入っ
ているので、それほど重くはないのですが、DAIGOさんはそれを察して
「ズシッと重いですね」と言われました。
が、高畑さんに渡したところ、正直に「思ったより軽いですね〜」と発
してしまい、NGです(笑)
DAIGOさんから察しろ!みたいに言われてました(笑)

幕末専門の鑑定家の方がおられましたが、最初、付き人かスタッフのひ
とりだと思っていたんです。
DAIGOさんに予想してみてくださいとフリがあり、「◯◯◯エン!」と
高額を言ったら、スタッフから「少なめでお願いします」と言われ、百
分の一に変更してました。

結局、19時くらいまでかかって、撮影は終了となりました。
撮影スタッフからマネージャーなど総勢20人くらいは来ていたようで
す。

最後に写真撮影会となりましたが、DAIGOさん、高畑裕太さん、共にと
ても感じのいい方でした。

打ち合わせ時にTVスタッフから
「DAIGOさんはすごく性格がいいんですよ〜」と聞いてましたが、間違
いなかったです。

福子は、撮影時に時々DAIGOさんの顔が間近になったのですが、
「とても綺麗な顔だった♪」と言ってました。

「7時にあいましょう」
http://www.dailymotion.com/video/x4ott4c

拍手[2回]

明治2年5月11日は、新暦の6月20日。土方歳三の命日です。



新暦に替わったのが、明治6年元日からとなりますが、
旧暦の明治2年5月11日・歳三の命日は、新暦では、6月20日にあたります。
歳三の最期の時、また市村鉄之助が脱出したのもそんな季節だったので、
函館に居ると、より肌で感じられることと思います。

一昨年は、碧血碑慰霊祭140年記念で、館長が“歳三の姉の子孫”として招待され、僕も函館に行きました。とてもいい季節でした。

歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出、船の中で出航を待つこととなります。出航したのが新暦の6月23日頃でしょうか。
中島登の記録には、市村鉄之助、行方不明とあります。

数日かけての航行で、6月末に横浜に着いたのでしょう。
到着後、間もなく質屋に立ち寄ったという記録があります。
当時、目的地に行くのも簡単ではない筈です。身を潜めながら佐藤家までやってくるとなれば、数日は要すると思います。

佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日との説があります。
この時期は梅雨の真っただ中。
鉄之助は、歳三の命を受けて持ち運んだ遺品・・・写真、遺髪、刀、書き付け・・・
「使の者の身の上 頼み上げ候 義豊」
いつもの署名、土方歳三ではありません・・・
そして戦況を伝える手紙は書いていませんでした。


賊軍となってから、筆まめだった歳三が、そこから手紙を一切出さなくなりました。
父母のように慕った彦五郎やノブに、いらぬ嫌疑がかかってはならないと、証拠に残る手紙を書けなかった。何をやらせても、そつなく出来た歳三は彦五郎、ノブへの配慮も忘れませんでした。
北へ向かう会津、仙台、箱館。もっと手紙を出したかったことでしょう。そんな歳三の気持を考えると可哀想だったなと思います。
歳三の一番大切な身内への心遣いは、市村鉄之助に伝言としてもたらされました。

「われ、日野佐藤兄に対し、何ひとつ、恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」




旧暦と新暦、その年によって、多少の誤差が生じます。
例えば、歳三が生れた天保6年、この年の5月5日は、新暦で云うと5月31日となります。

歳三の命日は、東京(当時、多摩辺りは神奈川県)では梅雨の時期だったなんて考えてみて、当時へ思いを馳せるとより実感できるかもしれません。

旧暦と新暦を調べて、あの時は現在ではこんな季節だったのだな~なんて考えてみると、おもしろいものです。

当家は、歳三のすぐ上の姉、のぶの直系の子孫にあたりますが
弟思いだったのぶでしたので、市村鉄之助から歳三の戦死を知らされた時のことを思うと、可哀想でなりません。
歳三の冥福をお祈りいたします。

拍手[1回]

市村鉄之助が佐藤家に着いたのが、147年前の今頃・・・
歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出して、数日かけての航行で6月末には横浜に着いてから、佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日といわれます。
歳三は、一番大切な身内へ形見の品を送りました。
日野の佐藤彦五郎の家にたどり着いた市村鉄之助によって、写真、遺髪、辞世の句や書付けなどがもたらせました。




その後、明治四年(1871年)までの約2年間、歳三の遺言どおり、佐藤家で匿われました。


(先日撮った市村鉄之助が匿われていた部屋。床の間の上部にオーブが見えますが、鉄ちゃんが挨拶してきたのか?(^-^)/
匿われたと云われてますが、最初だけで、読み書きや剣術を習って、普通に生活していました)

「彦五郎忌・新選組講演会」の予約も受付中です。メール、またはお電話でお申し込み下さい。

Eメール d-fab★sage.ocn.ne.jp ★を@に変えてください。

拍手[0回]

カレンダー
08 2017/09 10
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 13 14 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
最新CM
[05/16 えみーご]
[12/15 From弘前]
[03/24 めぐ]
[09/13 K]
[01/19 隊長@流山隊]
プロフィール
HN:
chu
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
カウンター
Script: Ninja Blog 
Design by: タイムカプセル
忍者ブログ [PR]