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佐藤彦五郎新選組資料館、ビートルズ、旅行、絵画、新選組、佐藤彦五郎と土方歳三の姉のぶ直系子孫・福子の旦那、などについての日記。この難解な日記は、たぶん最低3回読まないと理解できないかと思われます。   褒めると伸びるタイプです。

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29日、30日の3公演、新選組演劇「北の果ての理想郷(アルカディア)」の公演が、盛況のうちに終了しました。

今回は、彦五郎を主人公にした3部作の完結編だそうです。
シナリオを書かれた大村氏は、
「未完の多摩共和国」を原案に作られたとのこと。

鳥羽伏見の戦いの源さんの姿、館長の出演シーンの板垣退助と彦五郎、のぶ、慈豊とのやりとり、泣ける場面もありました。

激しい戦闘シーン、立ち回り、箱館・鴻池屋支店でのワインの宴、隊士の娘たちの恋、そして箱館での歳三と市村鉄之助は圧巻でした。



前回もよかったですが、今回の完結編がベストだったと思います。

この劇を完成させるまで、頑張ってこられた皆さま、本当にお疲れさまでした。


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3/29(日)
『日野新選組ガイドがご案内する 新選組のふるさと歴史の道ウォーク』
に参加しました。

日野新選組ガイドさんによると、20名募集したところ
なんと2倍以上に膨れ上がり、一班と二班に分けて、
それで僕は一班、福子が二班に付いて行くことのなりました。

日野用水に沿って、東光寺道を歩いていきますが
途中、水車があったり、桜が満開だったり、春がほのぼのしていましたよ。

この歴史の道ウォークの一番の目玉は、土方歳三、佐藤彦五郎も参拝した
平町東照宮を訪ねることでしょう。
平家に代々伝わる、徳川家康公から拝領したご神体・黄金の宝貨の見学です。

実際に見てみると、大きめの立派なものでした。
拝みながら、彦五郎や歳三もこれを見たのか?
ああ、ありがたや、ありがたや。

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この機会は逃せない!二度とない企画!
JR東日本さん企画!新選組の特別列車を運行して
「新選組ゆかりの地を訪ねる旅」ですよ。

新選組ファンを乗せたお座敷列車が、土方隊進軍ルートを辿ります。
知らない同士でも新選組話しで盛り上がります。
列車内では、ひの新選組ガイドさんの特別レクチャーがあり、
福子も同行して、ホテルでは歳三の裏話などを交えた講演いたします。

2日目の新選組ゆかりの地巡りも盛り沢山で、福子も同行いたします。
会津の桜の時期は4月後半だそうです。
会津での歳三の足跡、斎藤一のお墓、近藤勇のお墓と、ゆかりの地も多く
新選組にずっぽりと浸る旅になりますよ。

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土方歳三資料館前館長の土方陽子さんが、逝去されました

平成25年の5月、高幡不動尊での新選組隊士慰霊祭では
隣りの席でいろいろとお話ししましたが、
それがお会いした最期のお姿となってしまいました

心よりご冥福をお祈りいたします

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先日20日、用事があり、福子の友人に会いに、山梨に行きましたが、
そのついでに、勝沼戦争の地、柏尾付近を見てみようと行ってみました。

この地に来るのは、約10年ぶりです。
勝沼インターで降り、20号へ
目指したの近藤勇像も、木の陰になって、通りすぎてしまいました。
深沢入口の信号のところでした。

全国に何カ所かに近藤勇の像は在りますが、
この近藤の石像、他のに比べて異彩を放っております。



以前、この像を見た時、ちょっと情けない印象でしたが
今回見てみると、大雑把ではありますが、
これはこれでなかなかいいじゃないか、、、と思えてきました。
下から見上げると、なかなかいい感じです!

一般的な銅像ではなくて石像、たぶん石を彫って制作したのだと思いますが、
これはこれで大変だったと思いますよ。

ただ、この周り、電柱、電線が多いのが難点で、もうちょっとスッキリしてほしいです。

近藤勇石像のところには「近藤勇 柏尾古戦場」の碑と
柏尾橋の案内板がありました。



「柏尾橋」
明治十三年六月明治天皇の山梨御巡幸に際し、甲州街道の拡幅整備が進められました。
この時柏尾橋は、幅三間 長さ十九間の欄干付き木造橋として架け替えられた。
橋は深沢の両岸の岩盤中程から、二段の石垣を積み上げ橋台とし、下段の石垣からトラス構造の橋脚を両岸から突き出し連結したもので、
明治二十六年の版画や、大正初期の銅版画が残されている。

この明治橋の北側には、大正から昭和初期に掛け替えられてた橋台が残っており、
南には、現在の鉄骨橋、平成八年、さらに下流の甲州街道以前の大善寺参道の橋があった位置に
祇園橋が掛けられた。   勝沼教育委員会

と書いてあります。

さて、ここは最近、整備してきれいにしたみたいで、
旧柏尾橋?のほうまで、資料の説明板が並んでいました。

このように、石の台に説明板が付けてあります。


柏尾戦争を伝える資料  柏尾戦争を描いた錦絵



「柏尾の戦い」
慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。
夜にはいたる所で篝火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。
3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道を因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。
3月6日午後、最初の銃声は、等々力村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。
柵を破り進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。
このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。
宿通りを進軍する官軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。
官軍は、五所大神の南のダイホウインの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。
岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。

以上、このように書いてあります。なるほどね、、、
彦五郎率いる春日隊は、隊で戦っていたことがわかります。



「柏尾戦争の痕跡」
甲州市勝沼町には柏尾の戦争で亡くなった、幕府側2名、官軍側1名の墓が伝え残されている。
幕府側は明治30年代に建立された柴田八郎の墓が勝沼町深沢入り口の畑の中に、池田七三郎の墓が岩崎山の狐原の山中に、官軍の木村武則の墓が勝沼の護念寺墓地にある。
また、幕府軍のキャノン砲の砲弾が2点、官軍の鉄球弾が1点、勝沼宿上町に設けられた柵門の南側にあたる勝沼氏館跡外郭城では、白兵戦のおり使用された鉛玉が葡萄棚の抗跡などから多数発見されている。

「幕府軍の砲弾」が左の大きいもの。
「鉛玉の銃弾」が左下の沢山ある玉。

まあ、こんなことが書いてあります。

このへんで、続くにさせていただきます。

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